日米のオープンソース(およびオープンソース的活動)事情

梅田望夫さんのインタービュー記事を発端に日本のオープンソース事情が議論になっているようだ。(海部さんのブログ) 議論の中心は、そのような土壌が他の国(欧米)と比べて、日本にあるのか無いのか。

私見だが、結論から言うと、ソフト開発の現場では、そんな土壌は無いと言われれば、開発者は怒ってしまうだろう。ただ、ソフト開発でもネットを利用した知の協力(オープンソース的協力)でも、アメリカに比べて弱いと思われるのは、否めない。私は日米でソフト開発を経験したので、その例を示そうと思う。

GNU世代

私は1980年代後半から日本でUnixで開発してきた。ソースエディターはGNU Emacs,コンパイラgccかg++, デバッガもgdb世代である。就職してからの最初のUnixマシンはSun4であった。当時、Sunviewというウィンドウシステムがあったが、MITのAthenaプロジェクトである X Window systemをずっと使っていた。

オープンソースを用いた開発は、一般にWebが普及される1995年以前から、広く行われており、日本の技術者も恩恵を受けていた。日本語環境を除いて。
GNUのソースやX Window Systemは、インターネットの回線が細いため、有志が回覧リストを使って、テープを郵送することで回覧していた。

当時の日本のオープンソース開発事情

回覧されたテープから、ソフトをインストールするには、開発環境が異なるため、容易ではなかった。 UNIX MAGAZINEなど雑誌の情報は遅すぎた。そこで、活発に利用されたのは、NetNewsである。インストールのノウハウを交換するニュースグループが日本国内でも開設された。日本国内で解決されない場合は、米国のニュースグループも利用した。

日本国内では、日本語対応において、様々なグループが貢献した。日本語入力システムのEgg(たまご)は当時の電総研が、仮名漢字変換サーバーは、オムロンWnnオープンソースで作った。東北大学SKKを開発し、私も愛用した。私の当時の同僚の高橋裕信氏は、SKKからKAKASHIという漢字から読みがなを振るソフトをオープンソースで作っている。

日本語環境以外では、画像処理のソフトウェア分野で、キャノンがVIEW Stationという開発ツールをオープンソースで作って配布し、私も恩恵を得た。現在広く使われるOpenCVと同じ分野のソフトである。

古くは、フリーソフトという範疇かもしれないが、ファイル圧縮ソフトのlharcは1988年に配布開始されたらしい。当時は、パソコン通信という場で流通された。

私自身も、仕事の合間にX Window Systemの日本語端末ソフトであるKtermを改良して、当時のDigital Equipment Company(Compaqに買収)が利用するDEC漢字コードに対応したソフトを開発し、社内で配布したりした。

いずれもインターネットが世の中に広く普及する1995年より前の話だ。それ以降でも拡張現実感(Augmented Reality)の開発ツールであるARToolkit奈良先端大の加藤先生)は日本発の開発環境として、その分野では著名である。(追記:産総研が開発しているロボットシミュレーターのOpenHRP3オープンソースである。)

Linuxを含むUNIX上で開発する開発者がオープンソースとの関わり無しでいるのは、ほとんど不可能で、開発者は日々、その恩恵を得たり、貢献したりしているのが実情だ。かちんと来たのは、この分野の人であろうと想像する。

北米での開発

1995年から1997年の2年間は、大学で開発した。当時利用した画像処理開発環境は、VistaというUniversity of British ColumbiaのDavid Lowe先生のつくったソフトだ。ソースは公開され、改変が自由であった。私の恩師の大学教授も、顔認識用データを公開するなど、オープンな開発環境の促進には積極的であった。大学のファイルスステムは、オープンになっている Andrew File System が利用された。学生がインストールしたオープンソース開発環境は、積極的に研究室で情報交換があった。

オープンソース以外でもオープンソース的知の協力は日本とは違った。2年滞在した最初の1年は、自分の事務所に計算機を置いてもらえず、共有エリアのワークステーションで他の学生と交わり、カジュアルな議論をするのを推奨された。他の大学の先生や著名な卒業生が来校するとオープンなセミナー形式で最新研究例を話すのが、常だった。Sun Microsystems社のJames GoslinやToy Storyのグラフィックスを担当した Ralph Guggenheimが来た際は、講堂が学生で一杯になり、教授たちが焼きもちを焼く程だった。

情報を入手するには、提供するべしという文化を肌で感じた。当時、日本から滞在にくる人向けのサバイバルマニュアルである「ピッツバーグ便利帳」を、大学の内外の色んな人とネットを通じて共同編集し、Webで公開したのも、そういう環境だったからかも知れない。こういう環境の違いは、なかなか言葉では伝わりにくい。

日本と米国の違い

日本のソフトウェア開発は、日本語処理の開発がまず最初の対象となりがちで、世界発信という点では、ある意味ハンディかも知れない。

Ruby, lharc, あるいはARToolkitなど世界発信しているソフトもあるので、オープンソースの土壌がないと言い切られると辛いが、EmacsX Window System、最近では Android などのヘビー級のソフトと比較されると、それも辛い。

日米オープンソース事情のまとめ

ソフト開発者からすると、知の協力を促す場は、古くはパソコン通信のフォーラムからNetNewsがあり、オープンソースもあるのに、その土壌はゼロと言われると反論したい気持ちは、開発者の立場としてよくわかる。一方で、米国並の世界発信に少しでも近づくように、より発展して欲しいというメッセージもよくわかる。(追記(6/22):梅田さんの日本への愛情は、同じ記事のに溢れている。「出る杭は打たれる」日本文化には私も同感。)

「故郷は遠くにありて思うもの。」私も合計6年以上、米国に住んだ実感だが、日本を離れると、みんな、何とか日本のために貢献したいという気持ちが強くなるようだ。そこに、双方に誤解が生じるのは、残念に思う。